せまい脳内行ったり来たり/放浪編

もはや主にTwitterのまとめだったのに、2018年9月で途絶えている…。

私って遅れてる?

 結婚相手に三高、高学歴・高収入・高身長の男を求めるのがすでに遅れてるというか無理無理な状況だと認識されてるのはわかってましたが、その後男選びのキーワードとして三低なる言葉が出てきているのを知りませんでした。
 三低。男性を選ぶ新着眼点は、低リスク・低姿勢・低依存なんだそうな。低リスクは堅実な仕事、低姿勢は女性に対して高圧的でない、低依存は家事や休日の過ごし方などで女性に依存しない、ってとこでしょうか。2004年には出てきてるみたいだから、わたくし、二年も知らないままだったのか、それともそんなに注目のキーワードでもなかったってことか。(こういう内容なら負け犬絡みで目にしててもよさそうなんだが)それにしても、まー。なんちゅーか…、三高に比べたら現実的な要望になったものだと思いつつ、身も蓋もないなあという気持ちにならなくもなく。要は自分にとってめんどくさくならない男がいいなあという話なのかなと。
 私も普段の生活くらい一人で回せる家事能力はあってほしいなあと思うし、根拠もなく偉ぶられても「あんた、何様?」と思うし、ある日突然相手が経済基盤を失って家計が全部自分の肩にのしかかってくるのはたまらんな、とは思う。
 だけど、赤の他人と長い人生を過ごすとなれば、多少のリスクや面倒ごとを背負うのは当然で、むしろそれを全部回避するのが無理ってもの。弱ったときはお互い、依存したりされたりして乗り越えないとやってけないときもあるし、つきあいが長くなって気が緩めばえらそな態度を取ってしまうこともある。仕事のリスクに関しては、20年30年先の経済事情なんか予想しようもないんだから、これはバクチと割りきるしかない。始めっから「リスクいや、依存いや」とはじいてたら、まとまるものもまとまらないよなーって気がするのだが。石橋は叩きすぎると叩き割ることになりかねん。
 それに、相手に要望を出しまくるってことは、自分も相手の要望に応えなきゃいけないってことだと思うんだが、その辺はどうなんでしょうか?こちらも相手の三つのご希望に応えられるくらいの何かを持ってないといけないんじゃないでしょうか?なんて考える私はもはや古い女なのでしょうか。
 男の方も結婚には好き勝手な夢を抱いててお互い様ではあるわけだから、女性の要望についてだけうんぬん言ってもしかたないけど。

なぜ寛容になれないんだろう

 遅れ気味に先週末出た「ファミ通」を読んでいるのだけど。
 ↓の件でも思ったんだが、世の中他人に厳しく自分に優しい人が増えてきているのだろうか?って気が。
 「桜井政博のゲームについて思うこと」でファミ通編集部に寄せられたFFXIIに関するインターネットアンケートの結果について触れていた。文句たらたらのネガティブコメントが大量に届いたそうで、製作サイドではない編集者も当惑気味であったとのこと。ビッグタイトルで買った人が多い分、意見が割れるのはしかたのないことだけど、「最初から文句を言うためだけに投稿しているかのような、いびつな悪意のようなものを多くの投稿から感じた」というのはなんだかなあ…。
 気のせいかもしれない、けど、インターネットで見かけるアニメや映画や小説や、様々な作品に対する感想って、ときどき極端に対象を罵倒してたり逆に神のように崇拝しまくってたりする。自分が気に入らなかったものは社会的に抹殺せんばかりの勢いというか。自分にとってサイコーだったものが認められないやつはバカか生きるに値しないと断罪せんばかりというか。
 特に悪く言うことに関しては容赦がなくなる一方って感じで、少しでもその作品に好感を持っていたら読むのが堪え難くなるものが多い。昔は低く評価した意見でも「なるほど、そういう視点もあるなあ」と思わされることもあったんだけど、今は「これはこれなりにいいところもある」という寛容さがほとんどなくなってしまった。
 自分が気に入らなかったということが、即対象の全ての価値の否定になってしまうのはなぜなんだろう?対象が商品で、自分がお金を払ったお客だということはそんなにもエラいことなのか?
 本来なら友だちとの馬鹿話で披露される程度の感想がblogや個人サイトという形で大量に露出されてしまってるから目につくだけなんだろうか。
 褒めるにしてもけなすにしても極端なのは血圧が上がりそうだから、もっとおっとりやれないもんだろうか?愛ルケをあんなにクサした私が言っても、なんの説得力もないかもしれんが。(あれはなんちゅーか、他の作家の作品を我が身を振り返らずクサしてるナベ爺に対する反感もあるのだよなあ)