人間を書く
凶悪事件の報道を聞くと「いったいなぜ?」と思う。凶悪じゃなくても、近所の見知った人が自殺したと聞いても、「いったいなぜ?」と思う。
よくあることもあまり見かけないことも、人間のすることに「いったいなぜ?」と思わせられることは少なくない。その中でも、疑問が消えず残るものの正体を見極めようと苦闘する物書きの方がたくさんおられる。それはノンフィクションであったり、小説であったりし、書いた末に腑に落ちる結論が見い出されるかというと、やはり本当のところどうだったのかは解明できないままだったりもする。それでも書き手が対象と本気で向き合って葛藤の末に書かれた物は、口も開けないままじっとりと重いものを腹に残していく。
人間を書くってそういうことなんじゃないでしょうか?
東電OL事件というものがあって、その衝撃故にノンフィクションが書かれ、事件をモチーフに桐野夏生が小説も書いた。それらの作品は真実を解き明かしたのか?と問われれば、今はこの世にいない当事者は違うと答えるかもしれない。でも、対象に迫りたいと苦闘した書き手たちの気迫に読者は圧倒される。こんなこともこの世にあるのかもしれないと思う。フィクションにおいては、登場人物は自分の言動のわけを理解していないかもしれない。それを語る言葉を持たないかもしれない。でも、作者の思索の痕は地の文の行間から自ずと読者に伝わってくる。
それが作者の筆力ってもんじゃないでしょうか。
文章に力があるということは、笑いのネタとして話題に上るのとは違うような気がします。作者の思索の深さに圧倒される、それが文章の持つインパクトってもんじゃないでしょうか。
なんてことをなぜ考えてしまったかは、ごく一部の方にはわかっていただけると思います(笑)。
何言ってんですか?な方、ごめんなさい。