せまい脳内行ったり来たり/放浪編

もはや主にTwitterのまとめだったのに、2018年9月で途絶えている…。

はっきり言う無粋

 相方がやっと「キャシャーン」を見てくれたので、家の中でも話題解禁。二人とも原作アニメ視聴世代なのに、映画としての出来を追求するとかなり辛めなのに、なんでだか結論は「まー、これはこれでいいんじゃない?これはこれでおもしろいんじゃない?」になる。甘いのか?二人とも。
 脚本とか絵作りとか尺とか、パーツに対して言い出すと明らかに駄作に対するものと同じ感じになるんだけど、なんとなく漂っていく先の結論は「不恰好な出来だとしても『俺はこの映画でこれが言いたかったのっ。うるせーと言われても言いたかったのっ』と画面全体からどばばんとあふれ出てる映画って、邦画ではめずらしいよねえ。その意気は買うって気分になるのかねえ」というぼんやりしたものになる。
 こー、日本で「作品」と呼ばれるものは控えめが好きですよね?製作側は裏に回って、解釈は受け手の判断に任せる、みたいな品のよさが作品の質の高さとして評価される気がします。「キャシャーン」みたいなのは、だから無粋なんです。洗練されてない。しかも声高に叫んでるのは「人間の原罪」みたいなべったり青臭いものだから、これを生々しいままごろっと見せられると、観客側に立ったとき「うわー。かっこワリぃいー。恥ずかしー」って気分になるのです。オチが「それでも人はよくありたいのね」的な希望方面に向かってるあたりも。
 私の世代って、たぶん今TVや物語の送り手のコア世代だと思うんですが、人の生き死にやマイナスの感情の発露について、ストレートに意思表示をするのが苦手です。それは思春期と呼ばれる時代に接した物語が、実際に戦争を体験し辛酸をなめた世代によって作られていたせいじゃないかと思います。物心がついたときには「既に戦後ではない」と言われた時期も過ぎ、脱脂粉乳も飲むことなく、高度経済成長の恩恵受けまくり・飢えるなんて知らないよ(その代わり、まだ副作用がはっきりしてなかった食品添加物は山ほど食べてる)なんて育ち方をした私たちは、近親者の死に直面し、食うためにあざといこともし、自身死の縁を歩いた人たちの実感に裏打ちされた物語を浴びるように見聞きして、自分たちにそういうテーマを語る資格はないのだと思い知らされたのです。
 戦争とか差別とか、そういう重いテーマに関わるときは、「いや、俺はほんとのことは知らないんだけどさ」というポーズを取らないとやっていけなかった、それ以外のスタンスは許されていないような気がしてしょうがないんです。
 というのが一庶民に過ぎない私の勘違いだったら以下の話は大笑いなんだけど、もし同世代の物語の送り手が多かれ少なかれこういう感覚を持っていたら、今のところ世の中に流通してる多くの「物語」、特に↑みたいなテーマを扱ったものって、なるべく品よく・知ったかぶりにならないように気を使いつつ書かれてるんじゃないでしょうか。
 だから、お作法に適ってない「キャシャーン」みたいなものが出現すると、目慣れてないゆえのインパクトの強さに「負けた」って気がしてしまうのかも。
 とか、封切り当初には酷評が噴出していた「キャシャーン」が続映まで決定したのはなんでかね?と、たらたら雑談してみたのでした。ほんとのところの魅力ってなんなんでしょうね?