せまい脳内行ったり来たり/放浪編

もはや主にTwitterのまとめだったのに、2018年9月で途絶えている…。

今週の流刑地

 最終回です。本編が、じゃなくて私の気持ちが、です。体力気力に限界を感じ、引退を決意しました。そこはかとない敗北感、敵前逃亡の卑劣漢になった心境ですが、ちょっともうお腹いっぱいなもんで。草葉の陰から追っかけ継続中のblogのみなさまを見守っていきたいと思います。がんばりすぎないで!>「にっけいしんぶん新聞」さん。これからも低体温な路線でよろしく>「白目がちの犬」さん。
 「愛の流刑地」検索ワードでたどり着いたみなさん、↑に比べたら、全然ツッコミ緩くてごめんなさい。

 今回はもう流れを押さえてツッコミってやりません。月曜からおじさん方お待ちかねのえろシーンに入りまして、特に言うこともないし。
 わたくし、かつて斜め読みとはいえ「失楽園」も日経紙上で拝見しましたが。(そのころは自前購読者だった)アレもアレだったが、主役二人が恋愛(正確には色)ボケしていくに連れ世間から感覚隔離されていく描写くらいはあった気がする。深さはないなりに葛藤「のようなもの」くらいはあった。「愛の流刑地」はなあ、なんもない。ナベ爺、えろシーン以外は全く書く気ないんだなとしか思えない。
 人妻が正月二日に実家に家族を置いて男に会いに来るんですぜ。そういう状況の女とわずかな時間を共にするんですぜ。お互い思うところとか背後の事情とかあるだろうに、微妙な空気はろくに言及されないまま。空港着に一回、タクシーで移動に一回、きくぢ宅に荷物置きで一回、ホテルでご飯で二回(それも、きくぢ大奮発で夜9時から二万のフルコースなのに、一時間強で完食。普通まくったって一時間半はかかるんじゃないの?よっぽどホテルもレストラン部を早じまいしたかったんだろうなあ)、初詣(実際にはきくぢは初詣は終わってる)で一回。そんなんで何が書けるってーの?きくぢの懐具合よりも読者に伝えなきゃいかんことがいっぱいあるだろ?これがただの妄想充足えろ小説じゃないっていうなら。だってのに、六回の間にきくぢと冬香が交わした会話と来た日にゃあ、厨房か?と思うくらい知性も深みもない。叙情性ZERO。きくぢが即物的・散文的・えろ妄想過多なのはもはやどうにもならんが、ここにきて冬香も決定的な精神年齢の低さを露呈してきたし。あのー。初々しいのとカマトトは違うと思うのね。曲がりなりにも子どもを育ててる三十後半の女なんだから、もっとまともな思考回路を持ってるんじゃないのかと。(でなきゃ、子どもを死なせかねん)
 きくぢや冬香を通してこの話からかろうじて読み取れるのは、歳月は人を育てないというむなしい感想ですわ。
 で、男性にとってのお楽しみシーンも、私には「なるほどー。この(ナベ爺)世代の男性は女に対して勘違いが許されていたしあわせな人たちなんだねー」と再確認する以外、何の価値もありません。きくぢは相変わらず独りよがりだし、冬香も男をつけあがらす大サービス継続中だし、読む意味ねーでしょ。きくぢというかナベ爺は、女性に夢(妄想とも言う)を壊さないように気を使ってもらった付き合いしかしたことがないんだなあ、貧しいなあと思うばかりです。これが世代による恋愛観の違いってもんなんでしょうねえ。
 てーか、日経のナベ爺担当者はいい加減に止めてやれ。これ以上晩節を汚してどーする。<すでに手遅れ。
 今週で一月のえろ回数は通算14回になりました。14/30。これはいったい何の小説?<今さら問うなよ。
 
 二ヶ月ほどまぢめ(?)におつき合いさせていただきましたが、先が見えてきたので、この辺で遠くからしあわせをお祈りするモードに移ることにいたします。これからも主役二人のたいした人格の掘り下げもなく、劇的な状況の変化もないまま、「会う」→「えっち」→「別れる」を繰り返し、最後二人がえろいシチュエーションで死んで終わりなんでしょうねえ。やれやれ。
 一つだけ心残りなのは、今後ナベ爺が吐くであろう「愛の暴力団」「恋の許可証」「愛の仕置き」などに続く迷言を見落としそうだと言うことで。今週は「愛の試み」ってのがありましたが(そもそもあんたらの間にあるのは愛じゃなくて性欲だけなんじゃないの?とまたツッコミ)、今後もどしどし時代錯誤のインパクトある表現を繰り出していってください。
 おじさんたちも、「愛ルケ」をお楽しむのはいいけど、くれぐれも「こんなの現実にはあり得ない」感覚を忘れないでね。若い女性にきくぢレベルの対応をして、物心両面で満足してもらえるなんて努々思っちゃいかんです。勘違いすると現実にはセクハラしでかして社会的に影響出かねないし、そこまででなくても会社やご家庭で「やっぱおやぢってケチ・汚い・無神経」のレッテルが確定しちゃいますから。