せまい脳内行ったり来たり/放浪編

もはや主にTwitterのまとめだったのに、2018年9月で途絶えている…。

ソト側の人に知られたくない

 私の場合、たまたま姉妹がみなアニメ・マンガ好きで濃い世界に足をつっこんでいるから、「そういう自分」を知られてもあまりビビったり気恥ずかしくなったりしなくて済んでます。ごく希に同じ作品に入れ込んじゃったりしたときは、姉妹コラボで怪しげな成果物が出てくることもあるくらい。
 でも。全く相手が知らない作品にちょー入れ込んでるときは、たとえ気心知れたヲタ身内であっても全力投球してる自分の姿は見られたくないと思います。想像するだけで、無条件に恥ずかしい。こっ恥ずかしい。これが相方となれば、入り口に落とし穴を仕掛けても追い返したい領域。ヤツはSF好きの映画好きだけど、アニメやマンガはヲタ領域には入ってないし、作品のキャラを読み込むという楽しみ方をしないので、似たジャンル好きとはいえ全部を共有できるわけじゃない。
 この、ヲタ領域の趣味に近親者に踏み込まれたときの気恥ずかしさってなんなんだろう?とうっすら思っていたのですが、MYCOM PCの「ちょこっとイイブック」で「タッチ もう一つのラストシーン」を紹介している記事を読んで「ああ!」と気づくものがありました。
 おそらくマンガ版をベースにしたと思われるこの小説、記事を読んだ限りではある意味二次創作っぽい内容です。マンガの脇キャラに視点移動し、20年後からあのころを回想するという趣向。マンガでは描かれなかったシーンも脇キャラ視点で書き込まれてるってことは、一応マンガなりアニメなりの関係者からアウトラインは貰ってるとしても、それらのシーンは本来は作品の外側にいたはずの作者の頭から出てきたものな訳で。そして、書き手が作品に入れ込んでいた人だったらば、「あそこはあああってほしい」「彼にこんなことを考えててほしい」という願望が、押さえても漏れ出てくる作品愛とともに噴出してる可能性があるのです。
 というか、きっと噴出してるんだな、というのが「ちょこっとイイブック」の記事から読み取れます。この記事を書いてる方はきっと「タッチ」という作品から距離があり、でも、何か作品に入れ込むことを知ってるから読んでて「はずかしー」と感じるんでしょう。
 逆に作品との距離が近い人は、割と共感を持ちつつこの本を読んでいるみたい、というのがamazonの書評を読んだ印象です。これは読者と著者の立ち位置が近いせいなんじゃないかと。もちろん作品解釈の違う人も当然いるはずで、そういう方は不満を感じる可能性はありますが、「はずかしー」という感情にはならないんじゃないかと思うのです。
 もともと創作物って作った人の価値観や趣味嗜好が自ずと漏れ出てしまうもんですが、ファンの創作物って対象に対する愛情やほんの少し足りない残念に対する思い入れが強い故に漏れ方も激しくなるような気がします。「こういう人が好き」「こういうシーンにドラマチックさを感じる」「こんなことを言われてみたい」「こういう関係に憧れる」、そういうのがダダ漏れ状態。自分でも思うけど、脳内ストリップをやってるようなもんです。だから、同好の士どうしには「まー、お互い様よねえ」と苦笑いして見せ合うこともできるけど、外部の人に見られるとその距離故に漏れっぷりがあからさまにわかられてしまうから、ごっつく恥ずかしく感じるのだろうなあと。
 それでも、相手がネットの通りすがりの人だったら直接顔を合わせることもないから「見なかったフリで勘弁してください」と知らぬふりできるけど、趣味が違う身内や顔見知りに見られるなんて顔面が炎上して焼け野原になりそうです。「こいつ、あれでなかなかオトメなこと考えてるやんけ。ぷっ」なんて思われてるとしたら。うぅああぁあー、ごろごろごろ。相方だったらその場で躍りかかって首を絞め、「くのやろ、今見たことは全部忘れろ、すぐに忘れろ」と暴れ回ること確実。
 …こんなふうに考える私は自意識過剰なのでしょうか。…過剰なんだろうな。
 世間の濃い生活を営むみなさんは、身内を避けることなくヲ生活をエンジョイされているのでしょうか。