「日本沈没」を劇場で見直す
私はなぜ、これを見て怒ったりしないんだろうか。
と、改めて劇場で「日本沈没」を見つつ、自分が不思議でならないわたくしです。
かつて若かった私は「首都消失」が映画化されたとき、「こんなん、小松左京の『首都消失』じゃなーい!『首都消失』を原作にする意味なーい」と怒り狂ったものでした。首都圏の持つ様々な機能が突然失われてしまったら?というシミュレーション小説をエンタメ映画にするという時点でそもそもいろんな無理があったわけで、少し引いたところから冷静に見ればああいうアレンジも止むなしという見方もできはしますが、燃え燃え小松ファンだった私は原作の主旨がちっとも反映されてないように思えてすごく裏切られた気分になったのです。
その伝で行けば、今回のリメイクだって「こんなん、小松左京じゃなーい!」とちゃぶ台ひっくり返してるとこではないのか?>自分。(ある意味小松だなと思うところもちゃんとあるんだが)客観的な自分は「筋金入りのSFファンや映画好きは評価しないんだろうなあ…」と自覚しているというのに、なぜしれっと「これはこれでいいんじゃないの?」なんて言えるのか?>自分。
冒頭でいきなり「これはメロドラマなんですよ」と開示された時点で「ああ、そうなのか」と脳内チャンネルをがちゃがちゃ切り替え成功してしまったせいなのだろうか…。
この感覚に似ているのがあるなあと思い出したのは、映画版「アップルシード」(全編CGのアレ)を見たときの感覚。あれは士郎正宗の「アップルシード」が原作である必然性があるのかなー?と思わせられるとこがあったんだけど、途中から「日本でもこんなばりばりにハリウッドのアクション映画みたいなテイストの映画を作れるもんなんだな、へええ」と、そっちに関心を引かれてしまった。たぶん、私が士郎正宗のファンではなかったせいだろうけど。
でも、小松左京に関してはファンのはずなんだよね、私は…。
年取ると感性がゆるゆるになるんでしょうか。二度目も温和ーな気分のまま見終えてしまいました。私が見た試写会場ってやっぱり音響よくなかったんだな、などと思いながら。
ちなみに、私は小野寺が玲子とプラトニックに終ったのに納得した派でございます(笑)。