せまい脳内行ったり来たり/放浪編

もはや主にTwitterのまとめだったのに、2018年9月で途絶えている…。

今週の流刑地

 とりあえず週に一回ぐらい言及してみる「愛の流刑地」です。
 本格的に毎日取り組んでいるblogを読み始めてから、「ここの突っこみ読めば、十分じゃん。私のなんか蛇足、蛇足」という気がしてきました。突っ込みどころが満載すぎて付き合い出すとキリがないし、本腰据えておつきあいするにはそれなりの精神力が必要なもんですから。
 今週は一日、新聞休刊日があって、昨日はぼんやりしているうちに新聞を捨てられてしまったので、いつもより読んだ分量は少ないのに、「はー?」って口をあんぐりした数はいつもと変わらないってーか。
 以下、例によって続き機能なんですが。

 特に今日の分を読むと、昨日がないせいか余計に「ついていけない」感が増幅されてしまいましたわ。なんか、こー。渡辺センセイの世代と私どもの間には、恋愛というものに関する価値観や理解に断絶に近い溝があるのだとしか思えないっつーか。(愛の毛沢東渡辺先生のありがたいお言葉がここに)これが恋愛だとしたら、「やりたくねぇわ、私は」と申しましょうか。
 きくぢが(もう菊治と書くのも面倒です)ヒロインに「惚れている」というのが理解できないです。いったいどこに、なぜ、いつの間に?意志のないお人形さんばりに、あんた本意のえっちさせてくれた女だから?(他に理由が思いつかない)人妻だから子どももおろうって、夫もいるよ!三人も産んだのは、心根の優しい女だから、夫に求められるままに応えた結果であろうか、とか、人ん家の家族計画に口突っ込める立場かよ、このおっさんは。主体性なく来る者拒まずな女だからって可能性もあるのんちゃうの?それで冷めるとか冷めんとか、自分のことしか考えてねえ男だな。
 頭の中でみょーな妄想こねくり回してるヒマがあったら話せ。目の前にいる相手と。自分の妄想を押しつけて、ありもしない虚像をかぶせるな。三十何年間生きてきて、ダンナがいて子どもがいて、朝ご飯を作って掃除して洗濯して買い物して、チラシを見ながら特売の値段を比較する、血肉の通った女をちゃんと見ろ。
 もちろん、この話をわくわく読む多くの読者はそんな視線なんか求めちゃいないだろう。経済活動という色気も味気もない世界をつらつらと読んできて、ここでくらいはゆるゆるの夢見気分を味わったっていいだろう?と、そんな位置づけのオハナシだろうから。読者的にはそれでオッケーです。もはやこの新聞小説の存在価値は、一般紙を買ったらもれなくえろ小説がついてきて、何気なくそういう話が読めてラッキー、という以外ないだろうし。
 たださー。小説家としてどうなのよ?>渡辺センセイ。とは思うわけですよ。冬ソナやセカチューを「女子どもの世界」とか言ったアナタがこれでええの?と。話のアレさ、登場人物のナニさもさることながら、文章的にもどうなのか?と素人ながら疑問符わきまくり。「失楽園」も不本意ながらぱらぱら読んでましたが、あれより全体に出来が悪いというか。今週の「まるで小説のようである」には目が飛び出そうになりましたもん。推敲したんでしょうか。
 この脳内お花畑熟年と内面のないお人形さんは、この先どこの流刑地に流れていくのでしょうか。どこに流れようとお人形さんは痛みも感じないだろうし、妄想熟年は現実を直視したりはしない模様なので、お好きにどうぞ、ですけども。

 こないだ、社内でセクハラ研修があったんですが、こんなんが載ってる新聞を会社のお金で購入してるってのはある意味セクハラなんじゃないですかね?アメリカだったら、訴訟起こしたら絶対勝てそうな気がするんだが。いや、そんな無粋なことしませんけど。おかげで、ただで日経新聞読めてるんだし。