せまい脳内行ったり来たり/放浪編

もはや主にTwitterのまとめだったのに、2018年9月で途絶えている…。

「雲のむこう 約束の場所」、見ました

 クリスマス・イブのイブ、町中にケーキ売りとフライドチキン売りの声が響く中、小さな劇場で「雲のむこう 約束の場所」を見てきました。これも明日で上映が終わるので、その上最終上映が四時スタートだからレディスデーの特権が使えないんで、こんな時期に見に行くことに。「スカイキャプテン」よりも狭い場内、小さなスクリーンの劇場に、そりゃー集まってるのは明らかにをたくの皆さんばかりです(笑)。
 奇しくも、と言いましょうか、「スカイキャプテン」も「雲のむこう」も監督の脳内妄想がそのまま画面に焼き付いた系の、作家性の強い映画です。元々個人であてもなく映像を作り始めたって点も似てる。上に、どっちもMacユーザーだ。不思議な因縁を勝手に感じる私です。
 さておき。同じ監督の脳内妄想映画でも、「雲のむこう」に対する私の評価はちと辛くなってしまいます。相変わらずの映像(特に自然や日々の生活のディティール)の美しさ、切れのよい画面の気持ちよさ、それはあるんだけど、90分の物語にしては淡々と進みすぎるかな、と。中盤に一山ほしいし、クライマックスももう少し盛り上がってくれたらなーって気がする。この淡々感が新海作品の早朝の空気みたいなさわやかさの源泉ではあろうけど、なんかこー。もう一声っていうか。それと、おおざっぱにくくり直すと「ほしのこえ」と同じ、十代の男女の自分でも実感し切れていない相手に対する思い、その深さを書くために作られた話なのはわかるけど、90分の話の世界観としては複雑すぎる。二人が引き離されて、強い意志の元にまた出会い直す、そのためだけの舞台だとしたら、もっとシンプルに普通の世界でやれんかなと。ありがちかもしれんけど、「スカイキャプテン」ほど「あれあれ」で補完できる世界ではないから、未消化感が強いんですわ。中高生が知りうる範囲の世界、を敢えてやってるのかもしれませんが。
 いや、そもそも比べるのが間違ってるの。おバカ映画と青春シリアスラブストーリーを。どうしたって後者の方がハードルが高くなってしまう。シリアスはその場だけで世界に引きずり込んでくれないと、ついて行けない感が浮き立っちゃうからなあ。
 「雲のむこう」は、最初にどこまでも高い空に屹立する白く美しい塔と、手が届きそうで届かないその存在を共通の夢にする少年少女、というビジュアルが監督の頭にわいて、それを成り立たせるために物語が作られたんだろうなって思う。そのくらい、塔のモチーフが作品で大きく扱われてる。それはわからんでもないんだけど。
 絵として気になったのは、やたらと内側に折り込む動きをする女の子のアニメート。やたら内股とか、走るときの手の振り方。驚いたり喜んだりするとき、肘を胸の前に折り込んで「すごーい」って。あのポーズはぶりっ子に見えちゃうから、やめたがええ。さゆりはそういう女の子ではないんでしょう?
 とか、文句はたらたら言ったけど、青春の切なさみたいなものは、あの映像だからよく伝わる。天門さんの音楽もよかった。エンドロールで流れるボーカル曲よりあのテーマ曲の方が好きだった。
 だから、次回もがんばってくださいと言いますよ。観客としては。

 男の人がこういうつかめそうでつかめない、形になりそうでならない淡い恋の話をやってくれると、「こんなきれいなもんじゃないでしょー?」と突っこみながらも、今は安心したりもします。素朴で一途で不器用で、ただ相手がそこにいるのを感じるだけでしあわせになれる、そんな恋の話に価値があると思う男性がいるという安心。理想の死に方は情死と答え、家庭に愛はないから男は外に狩りに行く、なんてエロ妄想を語る七十代のおじいさんの迷走ストーリーに投げやりに付き合ってる今はなおのこと。