せまい脳内行ったり来たり/放浪編

もはや主にTwitterのまとめだったのに、2018年9月で途絶えている…。

「ハウルの動く城」、見ました

 さすがに公開二ヶ月過ぎたレディスデーはがらがら。通路側ど真ん中でゆったり鑑賞。お子様もいない静かな環境でした。
 しかし、宮崎駿はたいへんなことになっちゃったなあ。毎回かなり高水準の観客欲求を満たすことを要求されてるんだもんなあ。作家でもマンガ家でも映画監督でも、一生の内に後生に名作と呼ばれる作品を一本作れたらたいしたものなわけで。名作だけを作るなんて無理だし、むしろ駄作量産の上に一本の名作くらいの割合になるのが普通ではないかと。それを思えば宮崎駿は健闘してると思うのだが、世間はそれでは許さんのだよなあ。どっちかというと私は宮崎ものには気分的距離があるんだけど、「ハウル」の評価を見聞きすると、ちょっと同情的になったりする。
 で、どうだったかって?私は「千と千尋」より「ハウル」の方が好きだわ。「千と千尋」のわかりやすい隠喩のちりばめられた世界より、回収するつもりがあるんだかないんだかみたいな散乱の仕方の方が、いっそすっきりしてる。
 「ハウル」はわからない、話がまとまってないという感想をよく見るけど、それは「千と千尋」だってそうだし。「もののけ姫」」は理屈ちゃん映画だからさておき、「紅の豚」だってストーリーはあるようなないようなだし、何よりいきなり豚!だし。それを思えば「ハウル」がああなのも、別に怒ったりがっかりしたりするほどのこともなく。
 その辺が今回露骨にわかってしまうのは、作中に宮崎駿が自己投影してるキャラがいないせいじゃないかって気がする。ソフィーは今までの宮崎ヒロインとはちょっと違う路線で、100%の宮崎好みのキャラじゃない感じ。ハウルはもちろん、監督の分身や気持ちの投影先としては設定されてない。今までは好き娘(クシャナやエボシ系のお姉さんキャラ含め)や自分投影先ヒーローが作中に必ずいて、彼らの牽引力の強さで物語の破綻を補ってたのが、「ハウル」には物語を引っ張る強烈な思い入れを感じさせるキャラがいない。
 「もののけ」までの作品って、きっと宮崎さんは誰よりも自分のために作ってた気がする。まず自分がおもしろがれて満足できる。それが作る原動力。「千と千尋」は自分の外部に見せたいと熱望する観客がいて、その目標に向かって千尋を走らせてる。
 でも、「ハウル」は誰を観客だと思って作ってるのか、わからないんだよなあ。だから全体がばらけて見えるような気がする。
 とりあえず、ソフィーとハウルが疑似家族を形成していきながら前向きに自己統一をしていく話と読めばいいんじゃないかと。

 「ハウルの動く城」最大の収穫は、やっぱハウルでしょう!宮崎駿がこういう男キャラを描けるようになるとは!アシタカ→ハクと積んできた修行がここに花開いたって感じです(笑)。
 キムタクも言われるほど気にならないしね。映画終わって声だけ思い出してみると確かにキムタクだけど、絵と一緒に聞いてるときは全然顔が浮かばない。公開前は週刊新潮のワイド記事で「キムタクの演技が最低で聞くに堪えない」なんて言われてましたが、あれは男のやっかみ全開記事だったんだなあと思わず苦笑。実際、ふたを開けたら倍賞千恵子の18才の方があげつらわれてるし。公開されちゃえばバレてしまう肝っ玉の小ささをわざわざ露呈せんでもよかろうに。
 あと、大泉さんてばおいしい役もらっていいわね。監督に愛されちゃってるわね。