セオリーに縛られる
たまたま見つけたオタキング岡田さんの少年マンガのセオリーを読んでやっとわかった。私がある種のファン創作物にどうしても距離を感じてしまう理由が。私はきっと元ネタが採用しているセオリーと違うセオリーの元に作られた創作物に、なんとなくなじめないんだな…。例えば元ネタが少年マンガの場合、少女マンガや女性向き物語のセオリーに大きくシフトして作られた創作物を見聞きすると、「求めてるものと違うなあ…」と感じてしまうっぽい。これは単純に私の好みの問題に過ぎないけど。
そもそもファン創作物が元ネタに感じていた不足感をどうにかしたいという欲求の元に作られてるわけで、その欲求不満の理由の一つが元ネタが採用しているのが自分がなじんで快を感じるセオリーとは違うからってことが結構あるんじゃないかと思う。だとすれば、別セオリーの元に創作をするという行為はむしろファン創作物のあり方としてはメジャーなのであって、私みたいに違和感を感じるって方がきっとへんなのだ。
私もいい加減なヤツなんで厳密に「おんなじじゃなきゃ、やだ」と思うわけではなく、ある程度の幅までは楽しめるのだけど、セオリー違いを大きく激しく感じてしまうと「うーむ…」になってしまう模様。それで元ネタ少年マンガのシリアスな801とか全然だめなんだな。セオリー的にはあり得ないから。と自分に納得。
自分で楽しみの幅を狭めてるんだから損な性分って気もするけど、もう矯正しようにもエエ年すぎて無理っぽい。理由がわかってすっきりしただけでよしとするか。