せまい脳内行ったり来たり/放浪編

もはや主にTwitterのまとめだったのに、2018年9月で途絶えている…。

なぜ寛容になれないんだろう

 遅れ気味に先週末出た「ファミ通」を読んでいるのだけど。
 ↓の件でも思ったんだが、世の中他人に厳しく自分に優しい人が増えてきているのだろうか?って気が。
 「桜井政博のゲームについて思うこと」でファミ通編集部に寄せられたFFXIIに関するインターネットアンケートの結果について触れていた。文句たらたらのネガティブコメントが大量に届いたそうで、製作サイドではない編集者も当惑気味であったとのこと。ビッグタイトルで買った人が多い分、意見が割れるのはしかたのないことだけど、「最初から文句を言うためだけに投稿しているかのような、いびつな悪意のようなものを多くの投稿から感じた」というのはなんだかなあ…。
 気のせいかもしれない、けど、インターネットで見かけるアニメや映画や小説や、様々な作品に対する感想って、ときどき極端に対象を罵倒してたり逆に神のように崇拝しまくってたりする。自分が気に入らなかったものは社会的に抹殺せんばかりの勢いというか。自分にとってサイコーだったものが認められないやつはバカか生きるに値しないと断罪せんばかりというか。
 特に悪く言うことに関しては容赦がなくなる一方って感じで、少しでもその作品に好感を持っていたら読むのが堪え難くなるものが多い。昔は低く評価した意見でも「なるほど、そういう視点もあるなあ」と思わされることもあったんだけど、今は「これはこれなりにいいところもある」という寛容さがほとんどなくなってしまった。
 自分が気に入らなかったということが、即対象の全ての価値の否定になってしまうのはなぜなんだろう?対象が商品で、自分がお金を払ったお客だということはそんなにもエラいことなのか?
 本来なら友だちとの馬鹿話で披露される程度の感想がblogや個人サイトという形で大量に露出されてしまってるから目につくだけなんだろうか。
 褒めるにしてもけなすにしても極端なのは血圧が上がりそうだから、もっとおっとりやれないもんだろうか?愛ルケをあんなにクサした私が言っても、なんの説得力もないかもしれんが。(あれはなんちゅーか、他の作家の作品を我が身を振り返らずクサしてるナベ爺に対する反感もあるのだよなあ)