せまい脳内行ったり来たり/放浪編

もはや主にTwitterのまとめだったのに、2018年9月で途絶えている…。

生き物を飼うということ

 犬ブログで有数の人気と知名度を誇る富士丸が亡くなったことを今日知った。
 富士丸のブログはたまたま立ち上げ直後に関心空間で見て(飼い主の穴澤さんの知人だという人が紹介していたと思う)、ほんの初期に訪れ、確か一度コメントを書いたことがあった気がする。その後、瞬く間に人気ブログになり、本になり、気がつくと一人と一匹はトレンディネットで連載まで持つようになっていた。
 ハスキーとコリーの雑種の富士丸は親の血筋で精悍な外見なのに、特にまだ子犬に毛が生えたくらいのころはやんちゃでいろいろやらかしていて、その落差が読者としてとても楽しかった。体重30kgの巨体の犬が1DKの男の独り所帯にいるという状況も微笑ましかった。と感じたのは、やはり飼い主の穴澤さんの文章が暖かく魅力的だったからだと思う。男の犬飼いは女性よりも犬との距離が程よく、盲目的ではない深い愛情を素直に行間から受け取ることができた。(その辺はほぼ日でイトイさんと対談している内容からもうかがえる)
 富士丸はうちのアインより若く、だからまだまだ元気で暮らしていくのだと思い込んでいた。トレンディの連載でも変わりなく元気で穴澤さんと遊んでいた。けれども、犬であっても獣はぎりぎりまで元気にふるまってみせるんだろう。その死まで飼い主が不調に気づかぬくらい。

 けだものを飼い始めるとき、一番最初に考えてしまうのは「こいつは自分よりもずいぶん早くに先に死ぬ」ということ。必ずその死を看取らなくてはならない。
 犬は人間にべったりの生き物だから、その分死別の痛みは大きい。実家で飼っていた犬は14〜15年ほど生きて大往生と言えたけれど、当時既に仕事で家を出ていた私は夏だか冬だかの休みで帰省したとき、姿がないのに「ああ、ついに」と内心わかっていながら口に出して母に尋ねることができなかった。父や母もまた、犬の死を自分たちから話してくれはしなかった。私が犬の死について母と話すことができたのは、それから五年近く経ってからだったと思う。言葉にすると犬の死が逃れようもなく固定されてしまうようで、それがお互いつらかった。現実はもうすでに目の前にあるのに。
 両親はそれきり、犬を飼っていない。
 アインを飼うと決めたときも、いずれ訪れる死に覚悟ができずぎりぎりまでぐずぐず悩んでいた気がする。
 今も全然覚悟ができておらず、白内障が進み口の回りが白くなり、全体におっとりと体力が落ちてきた姿に、いずれ来るいずれ来ると自分に言い聞かせている。

 富士丸は直前まで全く元気だったようで、老化や病で心の準備ができていなかった分、穴澤さんのショックはいかばかりかと思う。ブログや連載の行間ににじみ出る情の深さを考えても、本当に立ち上がれないほどつらいと思う。時間がなんとかしてくれるのを待つしかない。富士丸のことが悲しいのと同じくらい、飼い主の気持ちが気にかかる。(犬にも人にも全く現実の面識はないのだけど)
 犬がいる日々は楽しくてしあわせだ。だからその分別れがつらい。大きな悲しみと痛みを感じるほどのしあわせをくれる犬に感謝しなくちゃいけない。
 そう思いつつ、私は今日もアインを「この世界最弱の犬がぁあっ」と邪険にしている。

富士丸 おでかけ日和
富士丸はこんな犬